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自分が失った8年に気づいたという話

自分が失った8年に気づいたという話。

たぶん、子育てのフェーズがまた一つ変わった。去年から、子どもたちが兄弟だけで寝るようになった。寝室からの解放。寝落ちからのリリース。

真っ先にやったのは、家事じゃなかった。本を読むことだった。中断されることのない読書に飢えてたんだなと気づいた。

音楽も聴くようになった。好きなアーティストはリリース曲だけはかろうじて追ってたけど、ライブ映像を見てたら、無性にライブに行きたくなった。アレクサに音楽をかけてもらった横から、子ども向けアニメソングに変えられることにほんの少しだけ抵抗感があったんだなと気づいた。

ふと足元を見て「あ、靴紐ほどけてた」と気づくような感覚。ずっと違和感はあったのに、直視してはじめて「やっぱりそうだよな」と認識したようなもので、膨大な読みたい本リストとライブ映像の視聴が消化されるに従い、8年のあまりの長さに気づいた。2015年って、そんな前のことだっけ?

自分を取り戻した私は、もっと時間がほしい、全然足りない、なりふり構わず没頭したい、誰か私の代わりに私に責任が生じる全てのことを肩代わりしてよと思う反面、しかし子育てを放棄したいとか、仕事辞めたいとかそういうわけじゃないのだ。
誰かが助けてくれるとありがたいんだけど、誰の指図も受けず、自分の思うままに暮らしたい。親に子育てを手伝ってもらうのも性に合わない。ほしい物はほしいし、一度手に入れたものは失いたくない。
つくづく勝手だよなと思う。

失われた8年に気づいたとき、もう戻らないんだと気づいたとき
得られたものがたくさんあったはずなのに、やるせない気持ちになる。
自分の人生にとって大きな決断を下したいくつかの場面に戻ることがあったとして、私はどうせ同じものを選ぶのに、なぜこんなに泣きたくなるのか。
いくつになっても、自分の感情はよくわからない。

そんな、失われた8年の話を友達にした。

子育てに追われて自分の全てをないがしろにしていた。
だから、今急いで8年間の音楽を追ってるし、読み逃してた本を片っ端から読んでるし、すごい量のマンガも読んでると冗談めかして話したとき、
ああ、わかる、と、その友達は私の顔を見ずに言った。
そして、この人はきっと私と同じ人なんだと思った。

その友達は、息子の友達の母親だ。要するにママ友。
音楽が好きだという共通点はあるものの、出身地的にも、勤め先的にも、おそらく一生出会うことがなかった、息子がいなければ得られなかったつながり。
そして同時に、息子が私たちの庇護下を離れた後も、多分ずっと友達でいるんだろうなと思う人。

その友達と、子どもが大きくなったらフェスに行こうと約束した。
ファミリー向けのフェスじゃなく、間違いなく悪天候になりそうなフェスとか、爆音のロックフェスとか、そういうフェス。
まだ子どもだから、雨に濡れたら風邪ひくかもとか音で耳を痛めるかもとか、そんなふうに誰のことも構ったりせず、自分が好きだと思うものを心の底から好きだと叫ぶためだけのフェス。その瞬間は、明日の自分がどうでも良くなるような、そんな。
子どもらとは現地解散し、彼らは彼らで、好きな音楽を聴きに行く。そんなふうになったらいいよね、と盛り上がった。

それはつまり、私の世界と子育ての邂逅。そんな未来があるんだと気づいた、すごい1年だったと思う。見た目的には何も変わってない。やってることも同じ。何かの成果に結びついたみたいな話じゃない。そんな、ひっそりとした革命が起きた1年だった。

失った8年を思うと絶望に似た悲しみもある。
やっぱりそこに嘘はつけないけど、この、ハッピーでも不幸でも、白でも黒でもない、とんでもない感情を持たせてくれたことに感謝しながら、今年はもう少しだけ、自分のための時間を増やしていきたいなと思う。

Text / 山本莉会

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